カンバーランド長老キリスト教会 泉教会

協力牧師のテレホンメッセージ・ラジオ放送

キリスト教“ほっと”ライン(協力牧師のミニメッセージ)
Tel 045-364-4041

このページの最新メッセージは、上記の電話番号で聞くことができます。
どうぞ 電話してみて、聞いてください(自動応答なのでお話する必要はありません)。

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私は、40年近く、牧師をしてまいりました。ずいぶんいろいろな方との出会いをさせていただいたのですが、ある時、玄関に「お水をください」という方が訪ねて来られたのです。理由を聞きますと、何か、病気をお持ちらしく、途方に暮れる思いで占いをしてもらったところ、近くの神社、お寺、どこでもよいからそういうところでお水をもらって飲みなさい、と言われたらしいのです。

水を入れた器を手渡しながら、私は言いました。「これは水道の、普通の水ですよ」。そして、聖書から次の言葉をコピーして、お水と一緒に差し上げたのです。─「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。

人は、辛い状況の中で「お水」をもらいに行く。いえ、別に辛い時だけではなく、(どうでしょうか)私たちはいつも、手元に置く何かの物、それは地位とか人からの称賛であるかも知れない ─ そういうものをもって、安心の材料にしていくのではないでしょうか。聖書は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」と言っています。何か、言いあてられているような気がしないでしょうか。

続けて「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言うのです。これはイエス・キリストという方の言葉です。”出会い”は人生を変える、といわれますが、ここに、わき上がる「命」との出会いがある。キリストとの出会いによって、人が人として、安心して生きることができると聖書はいうのです。

この電話は、「キリスト教”ほっと”ライン」と言いますが、キリスト教は、私たちの心と生活に、命がある「ほっと」する道を開くのです。キリストという方と一緒に、ほっとする道を、あなたも歩いてみませんか。あなたもぜひ、教会においでになってみてください。

その他のメッセージの例

私が前に住んでいた土地に、蓼川(たでがわ)という川が流れていました。昔はその辺りに蓼という草が生い茂っていて、それが川の名前になったのでしょう。厚木飛行場の中を流れ、やがて引地川に吸収される、全長7キロくらいの小さな川です。

ところで、この川には水源がありません。昔はあったのですが、今は埋め立てられ、クリーニング工場になってしまったのです。では、そこを流れている水は何かと言うと、その工場の排水であり、近くの家々から流れ出る生活排水なのです。そうなると、これはもう、生きた川などではなく、実は命のない川になってしまっているのです。

私はこの話を聞いたとき、私たちに似ているなあ、と思いました。水源がない。つまり、人を本当に生かすものがなく、あってもそこにつながっていなくて、生活排水が流れているような人生に似ている、と思ったのです。ただ日々の生活を処理しているだけで、それで、毎日けっこう忙しくはしていますが、生きているように見えますが、実は生きていないのです。

聖書を開くと、私たちは、私たちを造ってくださった方から離れ、勝手に好きなことをやっている、という人間理解を示します。つまり、水源を持たず、的外れの人生を歩んでいるから、たわいもないことで不安や恐れを感じ、人間関係においても、ねたみ、争いが絶えない、と言うのです。あなたがこの人間理解に賛成する、しないはともかく、どうでしょうか。あなたは自分と調和し、人とも調和して、豊かな歩みを営んでいらっしゃいますか?

ある年配の方が、自分には何の問題もないと言われました。ところが、そのご家族が、おじいちゃんの頑固には困っている、と周りに漏らされました。自覚しているか、いないかの問題であって、私たちは、どうもあの蓼川のように水源を失って、自己中心的な生き方をせざるを得ない者のようです。

いかがでしょうか。人生の創造者、水源となってくださるキリストという方に、今、少しだけ、あなたの顔を向けてご覧になりませんか。泉教会では、初めての人も気兼ねなく、聖書のお話を聞くことができます。

昔、新聞配達のアルバイトをしていた時のことです。自転車を止めてポストに向かって歩き始めた直後、嫌な予感がして後ろを振り返ったら、その目の前で自転車が新聞の重みで勝手に動き出して、倒れてしまいました。運悪く、そこにドブがあり、悪いことは重なるものです。ドブには水がたまっていたのです。かなりの新聞がそのドブの中に放り出されてしまいました。これは困ったと思いました。

そしてそのあと、私のしたことを皆さん、想像できますか。─ そのあとの一軒一軒、「すみません、こういう訳です」と言って、謝って回ったのです! 店の方では、「潮田の奴、いやに帰りが遅い」という訳で、心配して先輩が見に来たら、私がそんなことしているのですね。「何やってるんだ、こういうことのために、店には余分があるんだ。すぐに戻らなければだめじゃないか!」と、叱られ、呆れられてしまったのでした。

ただ真面目に一生懸命やればいいのではない。自分が結び付くところ、戻らなければならない所に戻らなければ、真面目にやっても空しくなってしまうことがあるのです。

聖書の初めに何が書かれているか、ご存知でしょうか。「初めに、神は天地を創造された」これが、聖書の1行目です。「初めに、神は天地を創造された」─ 「初めに」というのは聖書では「大事なこと」という意味で、「本当に大事なこととして、神は天地を創造された」。逆に言えば、天地、そこに生きる人間は、これを造られた創造者(神)と結びついている。これが大事なことだ、というのが聖書の冒頭の言葉なのです。しかし、先ほどの私の失敗のように、人は自分が結び付くところ、戻らなければならないところに戻らないで、ただ一生懸命やろうとしています。結局、何をやっても空しくなっていくのではありませんか。あなたも、あなたの原点である造り主、神に、戻って行ってほしいと、心から思います。

泉教会は、あなたのおいでをお待ちしています。

相模鉄道㈱の元副社長 岡幸男氏は、相模鉄道と共に人生を歩んで来られた方です。もう亡くなられましたが、横浜駅西口の開発はもとより、沿線の開発にかかわる大きな事業をこなして来られた方です。この岡さんが、講演会で言っていた言葉を、初めにご紹介します。
「相鉄の不動産部門で宅地を開発すると、多くの人が安住の地を求めてやって来るのです。しかし、宅地を開発しただけでは決して人が安住できる土地にはならないと私は思っているのです。最後に教会がなければ、だめだと思っています」。
岡さんは、クリスチャンです。相鉄がいずみ野線の緑園都市に「町」を作ることになった時も、彼はその町を見下ろす高台にはどうしても精神的な場所を設けたいと思い、駅の片方には大学を、もう片方にはキリスト教会を誘致するために尽力したのです。今、緑園都市の駅を降りると、左にフェリス女学院の十字架が、右に教会の十字架が立っているのです。
やっと安住の地に立ったと思った途端、─ 夫婦の意見の食違い、親子の断絶、嫁・姑の問題、隣近所の人間関係、自分自身の老化の悩み…、次々と問題が襲ってくるのではないでしょうか。子育てで追われていたり、会社の仕事で頭が一杯の時には気付かなかったことですが、このような問題を抱えたままでは、いくら新しい家に住んでも、生きる喜びも力も湧いてきません。人は生きることができないのです。
聖書は言っています。「神の家が廃虚のままであるのに、あなたたちはそれぞれ自分の家のために走り回っている」。家を建てても、廃虚のままである部分がある、というのです。あなたの人生の中で、神の家はどうなっていたでしょうか。私は、あなたとご一緒に聖書を開きながら、私たちが置いてきぼりにしてきたものを、見つめてみたいと思っています。あなたが私たちの教会をお訪ねくださるのを、心からお待ちしています。電話番号は 045-803-1749 です。。

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