カンバーランド長老キリスト教会 泉教会

牧師のお話(説教要約)

「主イエスの羊」
ヨハネによる福音書10章22~30節
本日の聖書箇所の前、ヨハネによる福音書10章11節に、「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」とあります。比喩的で間接的な表現ですが、主イエスはこのような表現で、ご自身が神様の下から来たメシア、救い主であると語っています。しかし、主イエスが直接的に「わたしはメシア」と語られることはありませんでした。たとえ直接的に語ったとしても、当時のユダヤの人々の救い主メシアに対するイメージは軍事的なものであって、主イエスの語られるメシアの内容とは異なるものであったでしょう。主イエスのなさった業や癒しによって信仰の目を開かれて、主イエスをメシアだと信じた人もいます。しかし、ファリサイ派のユダヤ人たちの多くは、頑なに主イエスを救い主と信じようとしませんでした。自分たちに都合の良いメシア像を作り上げていたからです。そもそも、羊が自分で頑張って立派な羊になれたら、羊飼いはその羊を養ってあげよう、という関係にはなりません。私たち羊は、元々羊飼いのもの、神様のものです。つまり、私たちは皆、主イエスの羊なのです。主イエスは、私たち一人ひとりをはっきりと知っておられます。それぞれの性格の違い、弱さ、強さ、個性をよく知っておられるのです。迷い出たら探しに来て下さるお方です。羊飼いである主イエスが私たち一人ひとりの名を呼んで導いて下さる、だから私たちは「主イエスの声を聞き分ける」のです。私たちが頑張って精進して主イエスの声を聞き分けることが出来るようになったら、主イエスの羊にしてもらえるのではありません。良い羊飼いである主イエスは、悪から私たちを守り、「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と力強い言葉を示しておられます。ただ父なる神様が、私たちを御子である主イエスのもとに私たちを導いて、主イエスの羊として下さった、だから私たちは父なる神様のものとされているのです。「私は主イエスの羊だろうか」と不安にならなくても良いのです。父なる神様と独り子主イエスのそのような一体性を語っているのが30節の「わたしと父とは一つである」です。主イエスと父なる神様は一つであり、その父と子なる神様が、聖霊の働きによって私たちを養い、導き、守って下さるのです。三位一体の神様の恵みのみ手から私たちを奪い取り、引き離すことができるものはこの世に存在しません。はっきりと主イエスの羊とされている私たちは、その恵みに感謝しつつ、歩もうではありませんか。(2025年5月)

「見ないで信じる者」
ヨハネによる福音書20章19〜29節
本日の聖書箇所では、あの「疑り深いトマス」として有名な、「ディディモ(双子)と呼ばれるトマス」が登場します。復活された主イエスが弟子たちに最初に現れた時、トマスはその場にいませんでした。その8日後、鍵をかけた部屋にトマスは弟子たちと共にいました。その部屋の中で、トマス一人が復活の主に出会っていないという状況でした。ですから「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と頑なになるトマスの心情もわからなくはありません。しかしその部屋に、復活の主は再びおいでになり、トマスに手の釘跡とわき腹の傷をお見せになりました。信じようとしない閉ざした心の扉を、主イエスは叩き続けて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけて下さいました。トマスはそれに気づき、主イエスが如何に自分のことを見ておられたか、大切にしておられたのかを感じ取りました。ですから、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白したのです。
現在、主イエスは父なる神の右に座しておられます。私たちは主イエスのお姿を肉眼の目では見ることはできません。しかし、主イエスの復活した姿に実際に出会い、見て信じた人々の証しが聖書に記されています。彼らは最初から盲目的に信じたのではなく、むしろ疑り深く、臆病で、頑なでした。彼らの弱さ、失敗を聖書は隠しません。その彼らが主イエスの復活を信じた過程や変化を知ることにより、多くの人が今日、目で見ることなく主イエスを信じて生きています。教会は、復活した主イエスを見て信じた使徒たちの「私たちは主を見た」という証しを聞いて、それを受け取り、今なお生きている主を信じる人々の群れです。聖書を開き、弟子たちの証しを読み、礼拝し、神様の語りかけを受け取る中で、主に出会っていくのです。復活した主イエスが私たちの目の前に現れて下さるなら、どんなに幸いなことだろうと思うこともあるでしょう。しかし、目に見えても見えなくても、主イエスを信じることで与えられる幸いは同じなのだと聖書は語っています。
復活した主イエスが私たち一人一人に来て下さり、「シャローム、信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけて下さいます。そのみ言葉を聞き、それに応えることによって、私たちは主イエスを見て確認することができなくても、今でも生きておられるお方を知り、信じる者の幸いにあずかることが出来るのです。(2025年4月)

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