カンバーランド長老キリスト教会 泉教会

牧師のお話(説教要約)

2025年

1月26日説教(饒平名丈伝道師)

マルコによる福音書14章53~65節「最高法院での裁判」

主イエスは捕えられて、大祭司のところへ連れて行かれました。最後の晩餐からゲツセマネ
の園での祈り、そして逮捕と慌ただしく、既に夜は更けていました。主イエスを捕らえたユダ
ヤの宗教的リーダーたちは大祭司のもとに集まりました。主イエスの罪を定めて、ユダヤ総督
ピラトに引き渡すためでした。そのため、この最高法院で行われたのは裁判ではなくて「取り
調べ」であったでしょう。それも結論ありきの主イエスを有罪にするための証拠を揃えること
を目的とした取り調べでした。55節では「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするため
イエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」とあります。そして数人が偽りの証
言を出します。「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない
別の神殿を建ててみせる」と主イエスが語ったという証言ですが、それを語った者たちの話が
食い違ったのです。これには大祭司たちも苛立ち、直接主イエスに問うたところ、あっさりと
主イエスご自身がメシア、キリストであることを告白したのです。主イエスが十字架で死罪と
なったのは、裏切ったユダ、逃げ出した弟子たち、偽証を重ねた人々が主イエスを十字架につ
けたのではない、ということです。大祭司とユダヤのリーダー達が画策して、主イエスを有罪
にするために偽証する人々を集めても出来なかったことでした。弟子たちには、ご自身がメシ
アであることを隠そうとしておられた主イエスでした。ところが、主イエス自らが大祭司たち
の前でメシアであることを告白し、本来は神様の御心を知るべき立場にいる人々が主イエスの
十字架での死を宣言された、という事実がこの箇所で明らかにされているのです。
主イエスがこの私の罪を背負い、身代わりになって十字架にかかって死んで下さったお方で
あることを信じて感謝する、それが私たちの信仰です。自らが死に価する罪人であることに気
付かされて、主イエスの十字架での死によって自らの罪が赦された、そのことを受け止める時
に、私たちは主に感謝して歩む者とされます。主イエスは、ご自身が、死から復活して天に昇
り、全能の神の右に座ること、そこから天の雲に囲まれて再び来られることを宣言されまし
た。私たちのために、主イエスが与えて下さった恵みは、未来の再臨の時にまで続くことを示
してくださいました。ですから私たちは、世の終わりに主イエスが再び来てくださることを、
待ち望みつつ歩むのです。

 

1月19日説教(饒平名丈伝道師)

マルコによる福音書14章43~52節「ユダの裏切り」

本日の聖書箇所は主イエスのゲツセマネの祈りの場面からの続きです。主イエスは私たちの
罪の赦しのために、身代わりとなって十字架の死と向き合われました。人間のための苦しく辛
く悲しい祈りでした。そして主イエスはこの祈りを三人の弟子たちと共に祈ることを望まれま
した。しかし、三人とも眠り込んでしまいました。孤独のなかで主イエスは「わたしが願うこ
とではなく、御心に適うことが行われますように」と祈りました。そして十字架の苦しみを引
き受けることを決意し、主イエスが「立て、行こう」と歩みを進められたときから今回の箇所
が始まります。裏切り者のユダが現れ、主イエスに接吻するのを合図に、祭司長、律法学者、
長老たちの遣わした群衆が、剣や棒を持って主イエスを捕らえようとしました。すると、居合
わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落と
したことが記されています。主イエスは彼らに言われました。「まるで強盗にでも向かうよう
に、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたの
に、あなたたちはわたしを捕らえなかった。」と。主イエスはマルコによる福音書14章36節
で、ご自分の願いではなく父なる神様の「御心に適うことが行われますように」と祈られたこ
とが記されています。そして、49節では「これは聖書の言葉が実現するためである」と語ら
れました。これらの言葉によって、私たちは主イエスの静かで揺るぎない決意を見ることがで
きます。51節に示される裸で逃げた若者はこの福音書を書いたマルコだと言われています。
なぜ彼はこのような自分自身の恥ずかしい話を、わざわざ福音書に追加したのでしょうか。弟
子たち全員が逃げ出したことを書き記した彼は、弟子たちと同じように自分も逃げたと、告白
したかったのかも知れません。逃げ去った弟子たちは、 十字架にかかったのちに復活された
主イエスに出会い、変えられていきました。その変化は、主イエスが彼らの弱さや罪を担っ
て、支えて下さったからにほかなりません。神様の御心に従い、聖書の言葉が実現するため
に、十字架への道を歩まれた主イエスは、自分のことを守るために逃げ出してしまう弟子たち
の弱さをも深く憐れんでくださったのです。その弟子たちと同様に、自分のことしか考えられ
ない私たちのために、主イエスは十字架にて罪を贖ってくださり、復活にて死に打ち勝ってく
ださった、その驚くばかりの恵みによって、私たちは主イエスを見上げて歩み、従って行く者
とされるのです。

 

1月12日説教(饒平名丈伝道師)

マルコによる福音書14章32~42節「ゲツセマネの祈り」

本日の聖書箇所は、主イエスが死ぬほどに苦しみ、悲しまれた場面です。最後の晩餐の後、
主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴いオリーブ山へ向かいゲツセマネに来ました。そし
て、彼らに言いました。「わたしは死ぬばかりに悲しい」と。主イエスはひどく恐れてもだえ
苦しまれたのです。そして地にひれ伏し「アッバ父よ」と呼びかけて祈りました。「あなたは
何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うこ
とではなく、御心に適うことが行われますように。」主イエスはまず神様を礼拝し、神に信頼
をよせる中で、苦しみの杯が取りのけられることを祈りました。しかしそれと同時に主イエス
が祈ったことは、自ら負う苦しみ悲しみではなく、御心のままに、という祈りでありました。
私たちはこの祈りに支えられ、主の十字架によって赦されたこの恵みの中を生きています。
さて、弟子たちの反応はどうだったでしょう。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、主イエス
が常にご自分の側に置き、大事な場面にいつも伴われていました。会堂長ヤイロの娘を主イエ
スが生き返らせた奇跡の場面(マルコによる福音書第5章)に、この三人はおりました。また
山の上での主イエスの変貌の場面(第9章)でも、主イエスのご栄光の姿を目撃したのはこの
三人だけでした。このゲツセマネの祈りにおいても、主イエスはこの三人に「ここを離れず、
目を覚ましていなさい」と言いました。しかし弟子たちは眠り込んでしまうのです。その姿は
私たちにも重なります。私たちも主の壮絶な苦しみと悲しみの祈りに目を覚まして心を合わせ
ることができずに眠り込んでしまいます。そして何を祈るべきかを見失ってしまうのです。そ
れが私たちの姿であり、弱さです。
弟子たちと私たちの弱さに同情しつつ、主イエスは弟子たちと私たちのために、死ぬほどの
苦しみや悲しみを背負い、その中で祈り続けて下さいました。眠り込んでしまう弱い私たち
を、主イエスのゲツセマネの祈りが支えて下さっているのです。そのことに気がつく時、私た
ちは主イエスの十字架と復活による恵みを宣べ伝えていく者とされていきます。この方こそ、
真の救い主である、と。

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