教会に行くと、どこの教会でもそうですが、受付で名前を書いたり、いつも来ている人は自分の名前のところに〇を付けたりする。(アメリカなどでは、そういう習慣はないようです。)初めて教会に来た人は、抵抗感があるに違いないと思います。
どうして名前を書くかというと、きかれると困る話です。記録のため、というのが一般的でしょうか。初めての人は、ちょっと教会を覗いただけなのに記録されるというのは、やはり抵抗感があると思います。ある教会では、保険を掛けてあるからだ、と言っています。教会に行ったことで、その途上、何かの事故があったら教会活動という名目で、保険金が出る、というのです。もちろんそういう保険に入っているからですが。なるほど。
しかし、それにしてもなぜ名前を書くかといったときに、私は、自分が名前を書いた(名前にチェックした)そのように、神が私たちのことをこのように記録してくださっている、という考え方をしたい、と思っています。
イザヤ書49:16節に、こういう言葉があります。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
神などいない、神の助けなどないのだ、と言う者の前に、神が言われる言葉が、今の言葉です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」そして言うのです。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
私たちの罪が、それがどんな深いものであっても、取り返しのつかないものであっても、そういう神がおられるなら、私たちは、いつでも、この神、この言葉の前に立つことが出来ます。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」私たちが名前を書く時、実はその前から、神が、私たちがするように、私たちのことをちゃんと記録してくださっているのです。名前を書く時に、ああ、そうだったと、そういう神さまのことを思い出せたらいいと思うのです。思い出してほしいのです。